短編

□月籠の胡蝶
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この間客から読み聞かせてもらった本に、「薔薇色の人生」がどうのこうの、という内容があった。
その一文を聞いただけで興味が失せてしまったので、続きがどうなったかは分からないけど、どうせつまらない終わり方をしたんだろう。

人生が薔薇色だなんて、とんだお気楽な考え方の奴が書いたんだから面白いはずがない。

この部屋も、この屋敷も、この世界も。

全部全部、くだらない。










月籠の胡蝶
〜サクラヅキ〜











投げ出した足に、窓の格子を擦り抜けて入って来た桜の花びらが舞い降りた。


日の光を知らない白い足に、淡い桃色の桜の花びらはよく映える。



まるで、あいつらが付ける所有印のようだ。



蹴落とすように足を振れば、桜の花びらは力無く風に舞い、畳に堕ちた。

足は再びなんの印も刻まれていない白に戻り、無意識にほっと息をついた。



「兄さん、お客様が参りました」



不意に襖越しに聞こえて来た声に、もうそんな時間かと気がついた。
窓から見える狭い空を見上げれば、そこには確かに白い月が昇っている。



「今行く」



けだるげなため息をついて立ち上がると、無造作に掛けていた衣に手を伸ばす。

淡い紅色の衣には、金色と銀色の美しい刺繍が縫い込まれており、かといって豪華過ぎず、繊細な雰囲気を持っている。

昨晩ついてしまった皺は、昼にはすっかり無くなっていた。
屋敷の誰かが綺麗にしてくれたのだろう。
簡単に羽織って部屋を出ると、待機していた少年が気遣わしげな目で見上げてきた。



「…お体は大丈夫ですか?」



まだ十も越えていない少年は、歳に似合わぬ大人びた目をしている。此処にいるのならそれは致し方ないことなのかも知れない。



「大丈夫だ。…あの客は乱暴でいけねぇな」

「…父さんに言っておきましょうか?」

「いや、俺が言っとくよ。ありがとな」



まだ幼い少年の柔らかな黒髪を撫でるように手を乗せると、それでも少年は心配そうな表情を浮かべて見上げてくる。
そんな様子に思わず苦笑を浮かべた。



「大丈夫だ。慣れてるから。…お前もいつかわかる時がくる」

「……はい」



そう言うと、少年は俯いた。
少年が手に持った蝋燭の炎が揺れた。それはまるで、少年の心情を表しているようだ。

数年前、俺もこの少年のように怯えていた。

毎晩やってくる男達。

夜の闇に紛れていく兄さんと、男。

残された聴覚が捕らえるのは兄さんと男達の獣のような声だった。



夜が来るのが怖かった。



あの闇の中で、行われていることが怖かった。



そして、いつか自分もその闇の中へと飛び込まなければいけないということが怖かった。



そんな恐怖も、今ではもう過去のものだが。















「…お待たせ致しました」

「おお、コウか。相変わらず麗しい」



ねっとりと纏わり付くような、気持ち悪い声に吐き気がする。
臥せていた身を起こして顔を上げれば、何度かこの店に来ている卸問屋の子息の姿があった。

年若い美男子ではあるが、高圧的で高飛車な性格の男だ。
何が気に入ったのか、一ヶ月に一度はこうしてこの屋敷に通っている。



「お元気そうで何よりでございます。波崎様」

「正和で良いと言うておるのに、まだ懐いてはくれぬか」



愉快そうに笑う波崎に、思わず悪態をつきたくなる心を鎮めて笑みを浮かべる。



「何をおっしゃいますか。波崎様のような方にそのような無礼な口を聞くわけには参りませぬ。あまり困らせないでくださいませ」



困ったような笑みを浮かべて首を傾げると、波崎はニヤリと嫌な笑みを浮かべる。



「まあ良い。なかなか懐かぬ猫ほど可愛いものだ。さあ」



両手を広げた波崎に、今日はやたらと早いな、と心の中で舌打ちをする。
後ろに控えてお茶を立てていた少年を振り返る。



「ハル。もう下がっていいよ」

「おや、まだいいじゃないか」



遥が下がろうとした時、面白がるような声で波崎が宣った。
驚いて波崎を見ると、にやにやと意地が悪い笑みを浮かべている。



「波崎様、何をおっしゃいますか」



思わず批難がましい口調で言ってしまい、慌てて口を閉じたが、波崎は特に気にした様子はない。



「彼もあと数年もすれば客を取るのだろう?ならば、お手本を見せてあげようではないか」



ゲスが。

眉間の皺を隠しながら、あくまで笑みを浮かべたまま首を傾げて波崎を上目使いで見る。



「そんな、恥ずかしゅうございます。それに、お手本など必要ございません。初めては初めてのお客様にご教授頂くのです。そのお客様の喜びを奪うわけには参りませぬ」

「ほう。ということは、コウも初めての客に全てを教わったということかな?」



波崎に身を寄せ、甘えるようにもたれ掛かれば口元を引きつかせながらも平静を保った波崎の手が腰に回る。



「もちろんでございます。…けれど、全てではありません。お客様と出会う度、新しいことを教わるのです。……もちろん、波崎様にも教わっておりますよ」



耳元に口を近付け囁けば、波崎の手がスッと腰から太腿を撫でた。
気持ち悪いその感触に思わず顔をしかめたが、幸い波崎には見えない位置だったので気付かれることはなかった。



「…成る程。では、私に何を習ったのか、復習してもらおうかな」

「…喜んで」



波崎が楽しそうに目を笑わせながら見下ろしてくる。
ニヤリと口元を上げて笑えば、波崎の瞳に暗い欲情した色が浮かんだ。



「ハル」

「…はい」



次は波崎も何も言わず、遥が出ていくのを黙って見ていた。



「小姓が見ていれば、君も興奮するのでは、と思ったのだがね」

「…そんなことせずとも、波崎様に触れるだけで胸が高鳴って仕方ありませぬ」



首元に顔を埋めながら囁く波崎の言葉に顔をしかめる。
チクッと肩に痛みが走る。



「要らぬ世話だったかね」



喋るたびに生暖かい吐息が体に当たって気持ち悪い。
波崎の手が赤い衣に伸び、きぬ擦れの音と共にスルリと着物が肌の上を滑る。

ゆっくりと着物の上に横たわれば、波崎の影が体を覆う。



「…相変わらず、美しい身体だ」



肌の上を辿る男の体温に吐き気がする。



視線を窓へ飛ばせば、桜の木が風に揺れていた。

ひらひらと舞い散るその花弁は、風に乗って夜空へと飛んでいく。

桜は自由だ。

誰にも縛られず、それでも誰からも愛されている。

自分とは大違いだ。



月に照らされて窓の柵の影が伸びてくる。

それはまるで月の檻のようで、俺は静かに目を閉じた。





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