短編

□選択肢なんて他にない
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※会社員阿部×コーヒーショップ店長三橋※






見慣れた扉を押し開ければ、カランッと耳辺りのいい音が静かな店内に響く。

こじんまりとしたこの喫茶店は、駅から離れた場所にあるせいか、いつでもそれほど客がいない。
どこか北欧のカフェを連想させる落ち着いた店内は、静かな雰囲気が好きな自分としては申し分ない。

古いレコードから流れるシャンソンに惹かれるように、カウンターの右から2番目の席に落ち着く。



この店に初めて来たのは2年前。
引っ越して来て最初の土曜日の昼過ぎだった。

赤い屋根に白い壁。花壇には緑が生い茂り、色鮮やかな花がポツポツと咲いていた。
まるで外国から持ってきたかのような一軒のカフェは、マンションばかりが立ち並ぶこの街では一際目を引いた。

少し遅い昼を済ませようとして入ったのが最初だ。
そしてそれから2年間、土曜日の昼はこの店で過ごすのが習慣になった。



物事にそれほど頓着しない自分が、これほどまでにこの店を気に入っている理由は三つある。
第一に、店の雰囲気が気に入っていること。
第二に、コーヒーが美味しいこと。
そして第三の理由が―――



「い、いらっしゃい…ませ。阿部く、ん」

「三橋、いい加減慣れてくれよ」



吃り吃り口を開いたこの店のマスターに、思わず苦笑が零れる。カウンター越しに水を置きながら、三橋はふにゃりと照れ臭そうに笑った。
その顔に、思わず頬が緩んでしまう。

この店に来る第三の理由、そして、最も重要な理由が、このマスターの存在だった。



「今日も…?」

「ああ、いつもので」



もう何回繰り返したかわからないこのやり取りも、全く飽きることはなく、今でもこのやり取りをするだけで、何故だか心がふわりと軽くなる。

カチャッと、三橋がコンロの火を付ける音がし、いつも飲む豆を持って歩いてくる。

カウンター席の右から2席目。
そこは、三橋が豆を挽き、抽出をする場所の真ん前の席。つまり、特等席なのだ。



「何か変わったことはあったか?」

「あ…、新しい豆 を、手に入れた、よ!」

「へぇ。どこ産?」

「バリ と、インドネシア、と、エチオ…ピアモカ、あ、あと、グアテマラ、のブレンドだよ」



コクがね、深くて、酸味…が、少ないんだ!と、嬉しそうに話す様子を眺めながら、挽きたての豆の良い香りを楽しむ。


こんな風に話せるようになったのは、ここに通い始めて半年が経った頃だった。
もともと人と話すのが苦手だったらしい三橋は、注文を聞く時ですらオドオドとしていた。

最初はそれでも構わなかった。
むしろ、一人で物事を考えるのが好きな自分にとっては好都合だと思っていた。

現に、この店に来る常連は美味しいコーヒーとプライベートなひと時を楽しみに来る人間ばかりであり、三橋自体もコーヒーがいれられればそれで構わないという変わった人間だった。
それでもこのような打ち解けた関係になったのは、彼がいれるコーヒーによるものだ。



「阿部くんも、気に入る…と思う よ」

「それじゃあ、後でもらおうかな」



ゆっくりと手で丁寧にミルで挽いた豆をペーパーフィルターにセットしながら話す三橋はとても楽しそうだ。

沸騰した湯を少しだけドリッパーに注ぎ、一旦休ませる。
そして、ぐるっと円を描くように再び湯を流しいれれば、サーバーに少しずつ焦げ茶色の水滴が落ちていき、ふわりと濃厚で香ばしいコーヒーの香りが鼻を擽る。



話すことが得意ではない三橋がいれるコーヒーは、本人よりも雄弁に語りかけてくる。

仕事が上手く行かなかった時には慰めてくれて、嬉しいことがあった時には一緒に喜んでくれる。
同じコーヒーのはずなのに、何故だかそんな風に感じてしまう不思議な味が、三橋がいれたコーヒーにはあるのだ。

とても深くて、優しい味。

それはきっと、三橋は人の心の変化に聡く、誰よりも優しいからなのだろう。


言葉ではなく、香りや味で話しかけてくるこの店のコーヒーが気に入って、そして何より、そんな味を出せる三橋の人柄に惹かれて俺はいつも、この店の扉を開ける。



「お待たせ、しまし た」

「サンキュ」



カチャッと、湯気を立てたコーヒーがなみなみと注がれたカップが目の前に置かれた。
手にとって口元へ近付ければ、ふわりと柔らかな香りが鼻孔を擽る。
口へ一口含めば、優しい苦味が舌の上に広がり、ほんわりと染み渡る。

やはり、いつもの優しい味だ。



「美味い…」



自然と緩む頬をそのままに呟けば、三橋は嬉しそうにはにかんだ。
その笑顔を見た瞬間、なぜか見てはいけないものを見てしまったような感覚が脳裏を過ぎった。そして瞬時に、その感情の正体に気付く。
無意識に顔を俯かせると、背後からカランッとベルの音が軽やかに鳴った。



「い、いらっしゃいませ」



コツコツとテーブル席へと向かう足音に、三橋は緊張気味に声をかけている。メニューの用意をすると、パタパタとテーブルに向かって行ってしまった。

しかし、今の自分にはその一連の出来事を眺めている余裕など、かけらもなかった。



「……まじかよ…」



突然気付いた感情によって火照ってしまった頬の熱をどうすればいいのか。
どうにかしなければ、と思わず口にしたコーヒーは、不思議なことに浮き立った心を落ち着かせる。



やっぱりすごいな。



頭の片隅で呑気にそんなことを考えながら、これから一体どんな顔でこの店に来ればいいのかと思い悩む。



「どう…したの?」

「え?あ、いや、なんでもない」



いつの間にか戻って来ていた三橋に慌ててそう言えば、三橋はクエスチョンマークを頭の上に浮かべながらもフワッと笑う。

そして俺はなんだかんだで毎週この店に通うのだろう、とその笑顔を見ながら思った。

だってこの店には三橋がいるのだから。




選択肢なんて他にない




THE END




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