短編
□月籠の胡蝶
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「…兄さん、お綺麗ですよ」
「……ああ…」
今日を持って俺、泉孝介は居なくなる。
月籠の胡蝶
〜ジユウ〜
何時も着ていた紅い衣は部屋の片隅に綺麗に畳んで置かれている。
この着物に袖を通すことはもう二度とないのだ。
悲しい時も、嬉しい時も、辛い時も、楽しい時も、何時もこの着物を身に纏っていた。
この場所にろくな思い出などないけれど、それでも今までの人生全てを此処で過ごしてきたのだ。この着物を置いて、色鮮やかで柔らかいけれど着慣れない衣に腕を通すと、寂しさのような得体の知れない感情が体中に溢れてくる。
泉孝介という男唱は今日をもってこの世から消えてなくなり、新しく生まれるのは同じ名を持つただの愛玩具だ。
派手で艶やかな着物を身に纏う其の姿は華やかだが、其の表情には陰欝な影しか浮かばない。
「…兄さん…」
着替えを手伝ってくれていた遥が悲しげな表情を浮かべて見上げる。
まだ幼い其の少年にとって、ずっと付き添っていた兄が居なくなることは心細いことなのだろう。
何と言って良いのか分からず戸惑うように視線をさ迷わせる遥の小さな頭にポン、と手を乗せれば、遥の目に見る見る涙が溢れていった。
其の涙を見て、決心した。
「ハル、お前は頭も良いし、器量も良い。きっと此処から出ても生きていける。だから逃げろ。俺はもう逃げられないけど、お前は今なら逃げ出せる」
遥の顔が悲しみから驚きに変わった。
時間は少ない。間もなく迎えの者が此処までやってくるだろう。
「今日はこのお祭り騒ぎで警備も薄くなってる。逃げるなら今しかない。お前は此処にいちゃいけない」
混乱した表情のまま立ち尽くす遥の肩を掴む。
この小さな体にこれから襲って来るのは、途方もない程の絶望なのだ。
好きでもない者に抱かれ、時には嬲られ、使えなくなれば捨てられる。
外の世界で生きる術を知ろうが知るまいが関係なく、何時かはこの屋敷から追い出されるのだ。
たとえ自分のように大切なものが出来ても手に入れることは到底叶わない。
未来永劫約束された絶望しか此処にはない。
まだ汚れを知らないこの少年には、幸せになって欲しかった。
だからこそ、其の小さな背中を押す。
「行け。警備の注意は俺が引いておく」
「兄さん…」
庭に出て、桜の木の影に隠れるように遥の背を押す。
遥は不安そうに木に隠れながら裏口と泉の顔を交互に見て、遠くからやって来る警備の男に目を向けると、体を縮こませた。
「コウじゃねぇか!そんなとこで何してんだ!!支度はどうした?」
槍を肩に担いで大股で歩いてくる警備に泉は遥を隠すように姿勢を正した。
「この桜も見納めだと思ってな。そうだ、荷支度で少し手間取ってたんだ。手伝ってくれねぇか?」
「あぁ?俺は警備があんだよ。あの小姓はどうしたよ?」
「ハルは今新しいご主人の所にお使いに行って貰ってんだよ」
警備の手を引いて少しずつ桜の木から遠ざかる。
ちらっと木を見れば、根本の辺りから遥が心配そうに顔を覗かせている。
「新しい主人の従者にでも手伝わせればいいじゃねぇか。俺は見回りの途中なんだよ」
なかなか素直について来てくれない警備に、そっと身を寄せる。
先程つけた香水の香りが警備の鼻を擽る。
「知らねぇ奴に荷を触られんのは嫌なんだよ。…なぁ、手伝ってくんねぇ?」
小柄な体をほんの少し寄せて困ったように見上げれば、警備の男は頬を赤く染めて視線を遠くへ飛ばす。
其の反応にニヤリと口元を上げ、そっと男の無骨な手を撫でるように触れると、ビクッと男の肩が揺れた。
「わ、分かった分かった!手伝えばいいんだろ!」
「どーも」
焦ったように顔を真っ赤にして飛びのいた男に色気を消して笑えば、男は愚痴を零しながらも部屋へと向かって歩き出した。
ちらりと桜の木を見れば、そこにはもう人影はなく、裏口の扉が静かに閉じていく所だった。
「……幸せになれよ」
前を歩く男に聞こえないように小さく呟けば、其れに答えるようにカタッと戸が閉まる微かな音が聞こえた。