短編

□月籠の胡蝶
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俺は胡蝶に恋をした







月籠の胡蝶 番外編
胡蝶が舞う夢











其れは俺がまだ十歳になったばかりの頃。

両親を早くに亡くした俺は其の頃から一人暮らしの叔父の家に住み込んで貿易商のいろはを叩き込まれていた。

叔父は貿易商の第一人者とも言えるほど凄い人で、その分大層厳しい人だった。
朝から晩まで働き詰めの叔父には、月に一度だけ空白の夜があった。

というのも、常に傍に置いて仕事の全てを俺に見せてくれる叔父は、其の日だけは俺を家に置いて行き先も告げずにふらりと出掛けて行くからだ。

其れは決まって満月の夜だった。

叔父は一体何処へ行き、何をしているのか。

ずっと気になっていた俺は、或る日叔父に其れを尋ねた。
すると叔父は特に隠す様子もなく、其の夜早速其の場所へ連れて行ってくれた。

あっさりした様子に拍子抜けしたけれど、遂に叔父の秘密が判るのだと思うと楽しみで仕様がなかった。



叔父に連れられて辿り着いた其の場所は、町外れにひっそりと佇む遊郭だった。



屋敷の周りを桜の木に囲まれた其の場所は、まるで外界を排除するかのように異質な雰囲気に包まれていた。
月影に浮かぶ其の屋敷に足を踏み入れれば、満開に咲き誇る桜の香りが鼻腔を擽った。



「良郎、一つだけ忠告しておくぞ」



赤い暖簾が垂れ下がった戸の前に立つと、叔父は神妙な顔付きで俺を見下ろした。



「此処は一時の淡夢を楽しむ場所だ。此処での出来事は総て幻だと思え。満月が魅せる幻想だと」

「どういうこと?」

「決して距離を間違えるなということだ。…大人に成れば自ずと解るだろう」

「ふぅん?」



いつも物事をはっきりと二分する叔父には珍しい其の濁した態度を不思議に思ったが、叔父が杞憂した事は時を経ず訪れた。



俺は其の晩、一匹の胡蝶に出会った。


















「……ふぅ」



ばくばくと心臓が鳴る。まるで耳元にあるかのような大きな音に、自分がどれ程緊張しているのかを改めて感じた。

ゆっくりと深呼吸すると、ちょうど雲間から月影が差し込んで来た。
白い月の光が満開の桜の木に落ちる。

数年前に初めて見た時も、此の桜は荘厳に、そして魅惑的に咲き乱れていた。



あの晩出会った胡蝶は、一瞬で俺の中に其の美しい姿を刻み込んだ。



きっと叔父は気付いていたんだろう。

あの晩を境に叔父に空白の一夜は失くなり、俺もまたあの場所を訪れる機会はなかった。



けれど、俺はあの日から時々夢を見る。



暗闇を歩いていると、何処からか小さな子供の啜り泣きが聞こえてくる。
其れはとても微かな声で、けれども酷く悲しげだ。

声の主を捜すように歩き回っていると、暗闇にほんのりと光が差し込んでくる。


月の光だ。


上を見上げれば、其此には確かに丸い満月が輝いていたけれど、其れと同時に自分が何処かの部屋の中に居ることにも気が付いた。
満月は、窓柵の向こう側で輝いていたからだ。



視線を部屋の中へ戻せば、月明かりで照らされた薄ぐらい畳の上に、小さな人影が浮かび上がった。


こちら側に背を向けて座り込んだ其の背中は儚げで、月影で落ちた窓柵の影の中に居る所為か、まるで籠の中に囚われているかのように見えた。


今にも壊れてしまいそうな其の背中に近付こうと一歩を踏み出せば、何処からともなく桜の花びらが一枚、二枚と二人の間に舞い込んで来た。

花弁の気配を感じたのか、其の背中が揺れてゆっくりと振り返る。

黒い闇色の髪の合間から真っ白な肌が覗き、通った鼻筋が見えて――――















まるで心臓が掴まれたかのような息苦しい程の痛みで目が覚める。

夢はいつも相手の顔を見る前に醒めてしまう。

ゆらゆらと、所在の無い此の気持ちを弄びながら夢の人物に想いを馳せる。





逢いたい





日に日に強まる其の気持ちは、俺の足をあの屋敷へと向けた。

そして今、此の薄い扉の奥に待ち望んだ人物がいる。

此れ程の、苦しい程の歓喜と緊張は感じたことがない。



漸く逢えるのだ。



桜の花弁がひとひら風に舞って視界を横切る。

俺は扉に手を掛けた。







止まっていた時間が動き始めた。





THE END





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