短編

□月籠の胡蝶
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いつもは外からお客がやって来る玄関を通って、開け放たれた扉へと向かう。
入り口に掛けられた外と中を遮断する暖簾からは太陽の光が洩れて床に反射している。
反射する鈍い光が眩しくて目を細めれば、暖簾を押し分けて父さんが外から入ってきて光が遮られた。

この屋敷を出るのは生まれて初めてだ。

そしてこの屋敷を出れば最後、此処に戻ってくることは二度とないのだろう。

にこやかに笑う父に答えるように、外の世界へと一歩近づいた。















月籠の胡蝶
〜コチョウ〜
















遠い昔、まだ小さな子供だった頃。
一度だけ、同じように兄さんが外へと買われて行ったことがあった。

其の時の兄さんも自分と同じように艶やかな着物で着飾って、この廊下を歩いていた。

あの時、物影からそっと其の様子を見ていた俺は、綺麗な着物に包まれた兄さんを羨ましく思ったと同時に、キラキラした着物とは逆に兄さんの表情が暗かった事がとても不思議だった。



なんでそんな顔をしているのだろうか。

美しい着物を着て嬉しくはないんだろうか。



まるで一枚の絵のような美しい兄の暗い表情が印象的で、ずっと忘れられなかった。

兄さんが屋敷から出ていって、他の兄さんにあの人は買われて行ったんだと聞いて、其の時はよく分からなかったが、屋敷で小姓を始めてようやく其れがどういう事なのかを知った。

そして今、あの時の兄さんの気持ちが初めて分かった気がする。



兄さんは元気なんだろうか。



もう顔も覚えていない、遠い昔にこの屋敷から出て行った兄さんの事を考えた。

あの時の兄さんのように、今の自分は暗い表情をしているのだろう。

けれど、そんなのは仕方のないことなのだ。


胸元に隠したあの手紙に、着物の上からそっと手を触れる。



きっとあいつは今頃船の上に居る。

もう二度と会うことは出来ないけれど、あいつがくれた最後の手紙があれば、きっと自分は大丈夫だと思える。

結局最後までなんと書かれているのか分からなかったけれど、あいつがくれた言葉なら何でも良かった。
それだけできっと生きていけるから。



「コウ、あの馬車を見てごらん。あの中にお前の御主人が居るんだぞ」



父さんが押し上げた暖簾から、再び日の光が溢れて視界が明るくなる。
暗闇に慣れた目を細めれば、庭の奥にある門の前に一台の馬車が止まっているのが見えた。

日本で馬車を走らせるなど、大層な金持ちなのだろう。
自分の客にそれほどの金持ちがいたのかどうか、興味がなかったのでよく覚えていないが。



「さぁ、行くぞ」



父さんが手をとって、歩き始める。
豪華な着物は歩き辛いもので、下を向いていなければ躓いてしまいそうだし、都合が良かった。
今の気持ちのままでは、どうしたって前を向いてなんて歩けない。

一歩一歩、鉛のように重い足を動かしてゆっくりと歩く。


このまま永遠に馬車に辿り着かなければ良いのに。


カチャッと、馬車の扉が開く音がして、続いて軽い足音が地につく音がした。


それでもやはり顔は上げられない。

新しい主人など、見たくもない。



「コウ、顔をお上げ」



ぴたりと父の足が止まって、遂にこの時が来てしまったのだと分かった。

重ねられた父の手を、まるで幼子のように握りしめれば父は困ったように笑って息を吐いた。



「申し訳ありません。どうやら緊張しているようですな」



主人に向かって言っているのだろう。
父はほんの少し焦ったように早口だった。



「さぁ、コウ。顔を上げなさい」



パッと振りほどかれた手はさ迷って、綺麗な着物を握りしめた。
それでも顔はなかなか上げられず、地面をじっと睨み付ける。


すると、頭の上で対峙する男がふっと小さく笑った。

風が吹き、香ばしい香りが鼻を掠める。



「泉」



聞き覚えのある、ずっと焦がれていた声が聞こえた。

頑なに伏せていた顔を上げれば、光を反射してキラキラと光る金色の髪が目に入る。



「…はま…だ…」



ふわりと細められた、優しい瞳に魅入る。



「な、何で…此処に…?」



まさか



これは幻ではないだろうか



あの香りはあの時の珈琲の、



だってあいつは今、海の上で



また少し大人びた顔になってる



まさか、こんなことが、



嬉しい



会いたかった





また、逢えた








「泉、迎えに来たよ」







混乱する頭に、心地よいテノールが響く。
それにつられて体は勝手に動き出す。



「浜田!!」



久々に感じた体温は変わらず温かく、ほのかな珈琲の匂いに涙が溢れた。








THE END










『月籠の胡蝶』あとがき



初の遊郭パロは如何でしたか?
今までにない設定で、書いていて楽しいと同時に戸惑いまくっていました。

始めは悲恋設定だったこのお話ですが、やっぱり考え直してハッピーエンドにしてみました。
そのため、本編だけでは凄く中途半端に感じてしまうかと思います。
そこで、本編とは別に番外編を二つ書き上げました。

一つは最終幕直後のお話。
もう一つは第零幕と第壱幕の間のお話です。

その二つをもって、月籠の胡蝶は完成です。

もう少しだけお付き合いください^^



『月籠の胡蝶』
作者 カミュ
執筆期間10'4.16〜10'5.14




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