短編
□月籠の胡蝶
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暗闇に光が差し込む。
薄い膜越しに届いてくるその柔らかくも強烈な光に、重い瞼を開く。
窓の向こうに、太陽に照らされた桜の木が見える。
満開の桜は朝日を浴びて夜とは違う健気さがあって美しい。
「泉、起きた?」
「ん…?」
ふと頭上から聞こえた声に、ぼんやりと外に向けていた視線を動かす。
朝日を浴びてキラキラと輝くその金の髪が眩しくて、思わず目を細めた。
「おはよう」
どこか照れたように微笑む男に、思わず笑みが浮かんだ。
月籠の胡蝶
〜アワユメ〜
「兄さん、時間です」
いつもと同じ始まりの言葉。
それが今までと違うように聞こえるのは、遥の声が明るいからか、それとも期待に膨らむ自分の胸がそう聞こえさせているのかはわからない。
けれど、確かにそれはいつもとは違うのだ。
「今日は」
なるべく不自然にならないように、遥に声をかける。
それに気付いているのかいないのか、遥はニコリと笑うと暗い廊下の先へ視線を向けた。
「浜田様がお越しです」
遥の答えに思わず頬が緩むが、慌てて平静を装うと廊下を歩き始めた。
何時もは重い足取りも、今日はまるで宙に浮いているかのように軽い。
浜田がこの屋敷に通い始めて半年が経った。
月に2、3回訪れる浜田と会えるのは、どんな日よりも楽しい。
浜田は外の世界の色んな話をしてくれ、遥と三人でいつも楽しい時間を過ごす。遥も浜田が来る時だけは歳相応の少年に戻るようだった。
「浜田様が珈琲というものをくださいました。粉末状にしたものに湯を通して飲む物だそうですが…」
廊下を歩きながら遥は尋ねるような視線を寄越す。
貿易商の浜田はよく色んな物を持ってきては自分達を楽しませてくれる。
けれど、屋敷の決まりには客からは決して口に入れるものを貰ってはいけない、というものがある。毒が入っている可能性があるからだ。
「飲み物か…。浜田が薦めるなら飲んでみたいけど、駄目だな」
「では、帰りにお返ししておきます」
「いや。俺から返すよ」
遥が懐から出した小さな麻袋を受け取る。
袋からは香ばしい匂いが漂って来る。
「不思議な匂いだな。…どんな味がするんだろう」
「浜田様にお尋ねしてみたらいかがでしょうか」
「そうだな」
遥の提案に小さく笑って、いい匂いがする麻袋を懐にしまい込んだ。
いつもの部屋にたどり着くと、いつもはする決まり挨拶はせず、少し乱暴な所作で襖に手をかけた。
「よぉ、泉。久しぶり」
「お前、飲み物持って来てんじゃねぇよ」
「あ、やっぱりダメだった?」
「たりめーだろ」
座敷の上で胡座をかいて寛いでいた浜田に向かって懐から出した麻袋を乱暴に投げ渡す。
危なげない様子でそれを受け取った浜田は、予想していたのか、驚きもせず少し残念そうな顔で笑った。
「美味しいから泉に飲ませてあげたかったんだけどね」
浜田の隣に座ると、浜田は嬉しそうに笑って抱き着いて来た。
特に抵抗もせず、数週間ぶりのその体温に身を任せる。
「珈琲って、どんな味がすんの?」
麻袋から漂ってくる香ばしい薫りに、先ほど遥と話していた疑問を口にすると、浜田はんー、と少し考えたあと、説明しだした。
「豆を挽いて、湯をかけて抽出した液体を飲むんだけど、黒くて結構苦いかな」
「黒い?それってホントに飲み物かよ?」
真っ黒な液体など、本当に飲めるものなのか疑問に思う。
怪訝そうな顔をすると、浜田がクスクスと頭の上で笑い出した。
「俺も最初は驚いたけど、これが癖になるんだよ。いつか飲ませてあげるよ」
浜田が笑う度に体が揺れて、浜田に寄り掛かっている自分の体も必然的に揺れる。その微かな揺れが気持ち良くて、小さく笑った。
「いつかって、俺がこっから出られるのなんてあと何十年か先の話だろ。約束できんのかよ?」
「うん。忘れないもん。泉との約束なら」
「もんとか言うなよ。気持ち悪い」
「泉酷いっ!」
男唱である自分に商品としての価値がある期間は短い。
それは男唱を買って家に縛り付けよう等と考える人間などおらず、どの客もたいていは若い男を望むからだ。
とはいえ、まだ十代である自分の商品価値は高く、短くともあと二十年はこの屋敷に留まることになる。
けれどあと二十年待てば、自由になれるのだ。
「……浜田さ」
「ん?」
浜田の胸に寄り掛かっていると、トクントクンと、浜田の鼓動が伝わってくる。
その音が愛しくて堪らない。
この温もりが愛しくて堪らない。
「なんで俺を抱かねぇの?」
浜田が此処に通い始めて半年が経った。
けれど浜田は、一度も俺を抱いたことがない。
浜田はいつも俺を抱きしめて、ただ一晩中話をする。
まるで、小さな子供がぬいぐるみを抱きしめて離さないように。
「…これでも、我慢してるんだよ?」
「なんで?」
浜田の顔を覗き込めば、浜田は困ったように眉尻を下げて笑っていた。
「此処では、ね」
それ以上言う気はないのだろう。
浜田は目を細めると抱きしめる腕に力を入れた。
俺はそれ以上は何も聞かず、浜田の胸に頭を預けて目を閉じた。