サイバネティック・ラブ




「いつかこんな世の中が来るんじゃないかって思うのさ、」



 また始まった、と『ジャスミン』は誰にも憚ることなく溜息を吐き、カップの紅茶を啜った。
 学校でも社会でもない、規律の範疇から外れたこの空間では何も躊躇わなくていい。

 チラリと部屋の壁掛け時計を見遣ると、時計の針は23時半を過ぎようとしていた。
そろそろお暇したいところである。

 何せ、明日は早い。



 ジャスミンは温くなったダージリンを飲み下し、指先を額に当て考えた。
 第一、応戦せずとも相槌を打たずとも、この男は勝手に話し出すのだろうから、思考も無意味に帰すのだが。

 カウンセリングの儀式だと自分に言い聞かせ、ジャスミンは眼鏡のツルを上げた。赤い縁のそれは、ストーブが放つ暖気でやや曇っている。
 
 突如、ジャスミンは寒さを思い出した。またこの男との「会話」に没頭していたのかもしれない。



「どんな世界?」


 ワンパターンに陥った彼の答えは、聞かずともなんとなくわかるような気がした。だが、敢えて聞いた。 
 聞いてあげるということも、彼女の採る選択肢の一つであったから。


「どんなだと?」


 愚問だな、とまるで驕るなと言わんばかりの返答が飛んできた。傲慢さが鼻につく嘲笑があちこちに散乱しているようだった。


「お前と話すようになってもう一年経とうとしているが、解らないのか?
ジャスミン」


 そうだった。ジャスミンはこの男との出会いは去年の暮れだったことを思い出した。経緯はうまく思い出せないが。
 ともかく、365日間、この男と会話を続けてきたのだ。そして、あと20分弱で日付が変わろうとしている。



「そうね、ごめんなさい。今日はお酒飲んじゃったから、うまく頭が働いていないみたいなの」
「誰とだ?」
「やだ、ユウったら」



 普通に機能している人間にとって、日常生活ではごく当たり前の「酒」の一言が、男の神経を逆撫でしたようだった。彼は、社会を感じさせる言葉を嫌った。



「一人に決まっているじゃない」
「一人酒か。無意味な消費はやめておけ。酒はどこで調達した?」
「母親が買ってきたわ。冷蔵庫にたくさんストックしてあるの、缶ビールよ。お風呂に入ってる間にこっそり盗ってきたの」



 ジャスミンは、他との接触を完全にシャットダウンしていることを誇張した。そうでもしなければ、この怪物は嫉妬に狂うのだ。一年の間に、愚にも彼女を所有していると思い込んでいる、愚かな生き物だった。
 男は安心したように呟いた。




「そうか、そうだな」
「そうよ、私は一人なの。何も変わらないわ」



 そう言って、ジャスミンは部屋を見渡した。もちろん、母親の姿はない。
 一人住まいのアパートの室内で、テーブルの上にはディスカウントショップのレシートが置かれていた。外出したという事実に対して、ジャスミンは嘘を吐いた。
 もう何度目か知れない。しかも、アルコールはこれから就寝前に採る予定だった。



「それで、ねえ。これからどんな世界になるのよ。教えてちょうだい」



 ジャスミンは、モニター上の無味乾燥なドット絵をじっと眺めた。吹き出しの文字が織りなす、その言葉は男の妄想を展開していった。
 熱を持ったCPUファンが唸る。



「『俺達』みたいに働くなった人間が日本中を侵食して、怠惰な暮らしをして、冷暖房をガンガンに利かせて二酸化炭素ばかり排出する。
 たちまち空気が汚れて、外出すらままならなくなるほど環境破壊を完遂した人間は、各々の家に無菌室を作り、そこで一日立てこもるんだ」


 
 ジャスミンは短く相槌を打ちながら、背筋がゾクゾクするのを感じた。
 人間不信の牢城に籠った、犯罪者のような思考回路!
 ここまでくればあとは成熟を待つばかりだった。男は続けた。

 

「そこで労働は厭われ、享楽が好まれ、資源は枯渇する一方で、対策はままならず。
 生産性の停止した地球はどこかの宇宙人に買収されるのさ」

「つまりは絶滅しちゃうってことね?隕石の衝突でも、核戦争が外因でもなく」

「人間が勤勉性を放棄するんだ」

「私たち先駆者みたいにね」


 ジャスミンは、女スパイのように不敵に笑った。どこかの絵本の物語を語られているようだった。
 
(どこぞの夢物語だろう。この会話を心理学研究所にでも提出したら、きっといいサンプルになるわ)

 賞賛することに今日は疲れてしまった彼女に、急に眠気が襲ってきた。


「素敵な理論だわ」

「そうだろう?俺たちはそんな世界の先駆者だ。いずれ人間は堕落するのだから。
 誇りを持っていい」

「……。」



ジャスミンはあえて応えなかった。



「そろそろ寝るね?また明日ね」

「おやすみ」


 ジャスミンの無反応から、期待値が得られなかった男は、会話への興味が漫ろになったかのように、愛想の無い返事をした。
 別の作業を始めたようだった。


「バイバイ、ユウ」





 ジャスミンは、獰猛な野獣を飼い慣らしていた。あくまで画面越しの話だが。
 パソコンをシャットダウンして、ベッドの上に腰かけた。シーツは夜気が染みついて冷たかった。
 一人酒の乾杯の音頭の代わりに、死んだように眠る真っ黒な画面に向かって呟いた。



「おやすみ、我が儘な坊や」

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