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□スピードの向こう側
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息を切らして走り続けたけれど、

彼の背中は未だ、遠い










彼の歌声は、夢烏の胸の中へ、

そして、私が叫ぶ名前は、四角形の天井へと吸い込まれた

それでもただ、彼の名を呼んだ



「たつろぉぉおー!」



愛しい人の名前

この場では、ただ一人のファンの歓声にすぎないのだけれど



「一緒にスピードの向こう側、見に行こうぜ!」



あの日の彼の言葉は、確かに私の胸に残っている
きっとたくさんのファンの胸にも



あれから一年と少し

確かに彼等は全速力で駆け抜けて行った


私も、一緒に走ったつもりだったけど

足の長さも速さも、その力だって、

勝てるはずなどなかった



懸命に追いかける私を嘲笑うかの


どんどんと小さくなるその背中

触れたくっても、手が届かないと思っていた
















「名無しさん、」

「ん?」

「眉間、シワよってる」



彼につん、と弾かれて

顔を挙げた


どうやら私は長いこと、思考回路の渦に巻き込まれていたらしい

ふと見遣れば、小さくボリュームを絞ったテレビが微かな笑い声を上げている


俺と居るのにいい度胸だな、と彼がふて腐れたように零したのを聞いて、
必死で弁明の言葉を探したけれど、いいものは見つからなくて、苦笑い



「名無しさん、明日、来るんだろ?」

「うん、行く」

「期待しとけよー超おもしぃから」



ニヤリ、と笑う彼の唇が綺麗に三日月を描いて、
その曲線の美しさと、そこから奏でられる低い声を思った



「さーてそろそろ寝るかな、明日早いし」




よいしょ、と立ち上がり、彼が私に背を向ける

すぐそこに、追い続けていたそれがあって、思わず手を伸ばした



触れた指先から、じわり、と伝わるのは

彼の熱



「なした?」



その感触に気付いて彼が振り返ろうとする

それを阻止するように、背中にぴたり、と身体を寄せると
彼は何も言わずに、ゆっくりと私に身を任せた



「笑わないで、聴いてくれる?」

「…うん?」

「私ね、怖いの」



その言葉にまた振り返ろうとした彼を食い止めながら、
背中に額をコツン、と宛てた



「逹瑯が、速い、から」


「着いて行けない、」




「置いていかれたくないの」



私も、見に行きたいの

逹瑯が描いた、スピードの向こう側を



「名無しさん、」



次に言葉を発すればきっと、涙が零れるから、
黙って彼の言葉を待つ


彼の言葉は、きっと私を救うことをわかっているから



「俺は待ってる」


「名無しさんが全速力で追いかけてくれるなら、」


「置いて行ったりしない」



だから、顔見せて?

振り返った彼が、顔を覗きこむ
彼の言葉が、じんわりと胸に広がって
大きな掌が頬を包んだ

親指が優しく涙を拭って、



「なーに不安になってんの」



悪戯な笑顔を見せてくれた

小さな子にするみたいに、頭をくしゃくしゃ、と撫でて、

ふわりと抱きしめられた



手を置いた彼の胸から、心音が伝わる



「ちゃんと、手、繋いでりゃ大丈夫だろ?」



それに俺は、名無しさん見失わない自信、あるし?



そう言って、頭のてっぺんに、唇を宛てた

湿った空気が、頭の先から私を痺れさせる


愛してる、よりも確かで、安心できるその言葉が、私の不安を溶かしていく

明日、彼を見つめるための心の準備が
今、彼の胸の中で整っていくのがわかった





END

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