文字

□とあるひ
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夢と現をさ迷っていたら、井宿が何か喋りかけてきた。
「翼宿、こんな所で……」
なんや?と返そうとしたら声が出ない。どうやら意識がかなり夢の中へと行っているようだ。

「髪が汚れて……」
再び声が聞こえたと思ったら、ふわっと頭を抱き上げられる感覚。そのあとに感じる、身体に当たる陽射しとは違う暖かさ。
その気持ち良い感覚に誘われて、翼宿はついに眠ってしまった。


「はぁ……全く」
相手がすっかり眠ったのを確認して、井宿は一人溜息をつく。
この溜息は、呆れじゃなく照れから出たものだ。普段あまり積極的でない男にとって、屋外で恋人に膝枕をするという行為はかなりの勇気が必要だったらしい。
日頃から積極的になれたら翼宿は喜ぶだろうが、気恥ずかしくてなかなか行動に出せない。
だからせめて寝ている時に、自分から何か仕掛けたかったようだ。
仕掛けに成功し、暫く翼宿の寝顔を見ていた井宿だったが、途中である問題に気付いた。

このままだと翼宿が起きた時、何が起こるか。
「……まずいのだ」
何せ普段は絶対にしない事をしているもので、こんな所を翼宿が見たらきっと大喜びだろう。
喜ばれるのはいいが、そうして盛り上がった勢いのまま夜になったら。
何をされるのか容易に想像できて、思わず唸る。

「やっぱり……こんな事、やらなきゃよかったのだ……」
熟睡している翼宿を今更膝から退かす訳にもいかない。
いつもの井宿ならまずこんな失敗はやらないだろう。やったとしても解決策などすぐに見つけ出しそうなものだが、今日はいつもとは違う。自分がやった事なのにそれが原因で少し混乱しているらしい。
翼宿が目を覚ますまで、身動きできずに一人途方に暮れた。

起きてこの現状に気付いた翼宿は、井宿が想像していた通り大喜びした。いや、想像以上かもしれない。
膝に寝転んだまま腰に抱き着き、かわええなあ、愛しとる、好きやと絡んでくる。このままだと夜どうなるかは想像に難くない。
いっそ頭を殴りつけて忘れさせてしまおうか。そんな物騒な事まで脳裏を過ぎった。

落ち着かない気持ちは水面に垂れた糸の先にも伝わったようで、結局その日、魚は一匹も釣れなかった。





おわり

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