他作品

□夏の夜
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 何故か視界は闇に覆われていた。
 鼻の奥をツンと突く厭な臭い、耳に届く荒い息遣いと水音。
 口腔は唾液で溢れ、だのに咽喉は痛い程渇き、張り付いている。
 肌を滑る風は冷たく、やはり夏とはいえ、夜の木陰は何処か寒い。
 地面につく膝には小石が食い込み、鈍い痛みを先程から与えてくる。
 身体を蝕む痛みの正体はこれか。否、ならば説明しようのない場所がある。
 温い汗が滲み出している掌が背中を撫でるように触れ、腰を掴む。
 認めたくない現実に、必死に答えを訴える身体を脳は頑なに拒絶していた。
 押し付けられた頭に血がゆっくりと落ち、顔が次第に熱を帯びるのとは対照的に、冷たさが足先から次第に蝕んでいく。

 身体に襲い掛かる激痛、直腸を引っ張られる感覚に内臓は痙攣を時折起こし、何も無いにせよ全てを吐き出したい衝動に駆られる。
 だが、決して悲鳴は口から零れ落ちる事はなかった。
 脳が身体からの全てを拒むが故に、動作を停止させているのだろうか。
 感じはする。ただそれが何なのか考えようとはしない。

 声を出す事は簡単だ。ただ、不愉快さ、嫌悪感を悲鳴にして曝け出せば良い。だのに、何故だろうか。
 下手なプライドが負ける事に対して、それを好としないとでも言うのか。
 何処かそれも、違う気がした。
 少しでも声を漏らそうものならば相手を喜ばせるなど百も承知。故かと問われれば、理由の一部には含まれていると答えよう。
 大半は確かにプライドかもしれない。けれど、僅かながら別のものがあった。

 ――不思議と、怒られる気がしたのだ。

 誰にとか、どうしてだとか。そんな事を通り過ぎて、ただ、怒られるのが嫌だった。
 だから、我慢したのだろう。

 まるで銅鑼でも鳴らしたかのように激しい音は身体中を駆け巡り、脳天を貫く時すらある。
 口腔には鉄の味が、身体から栗の花のにおいが広がり。
 下腹部の痙攣に筋肉という筋肉の力が徐々に抜けていくのが解った。
 地面に爪を立てようならば肉と爪の間に砂利が入り込み、その鋭い痛みに唇を噛み締める前歯が震え、出血が増す。
 そして体内へと送り込まれたものに対し、背筋が氷水でも浴びたかのように冷たく凍りついていく。
 炎の能力を持ち、それで出来ている己が凍りつくなど到底有り得ない事だというのに、そう比喩せざるを得ないのだ。

 思考が何処か別の場所へ飛ぶ。その都度後頭部を殴られ、下腹部に圧迫感を与えられる。
 膀胱を直接圧迫され、体内に直接吐き出されたものが追い出されようとする。
 出される事も屈辱ならば、それを排出させる好意はそれをも増すだろう。
 嫌だ、止めろ。声には出さずとも内心どれ程の罵声を飛ばした事か。
 決して開かないと固く決め、どれだけの血が流れようとも耐えたというのに、きつく閉められた楔はただ一突きのそれに外れてしまった。

 溢れ出す声は何と表現すべきか。
 擦れた声は聞きようによっては甘いだろうが、枯れた咽喉への負担は測り知れないもので。
 耐えて来た脳の防壁が崩壊し、身体のみが受けていた全ての衝撃が襲い掛かり。
 出したくもないもの全てが口から溢れ、零れ落ちる。
 閉じ方を忘れたかのように唾液は地面に痕を無数に作り、苦しさに時折咽喉は引き攣った。

 ふと、じわりと視界を覆うものが冷たくなっていく。
 そこで漸く自身が泣いているのだと気付く。
 何て惨めなのだろう。情けなくて仕方がない。
 恐怖だとか、屈辱だとか、有って無いような感情が多々脳内を駆け巡っては最終的に同じ地点へ到着する。

 ああ、こんな事が知れたらきっと、怒るんだろうな、とか。
 

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